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第1章

駅の改札口を出てから携帯電話を見ると、ちょうど約束の時間である十三時を迎えていた。雑踏のなかを見回してみると、待ち合わせをしている女性の姿が目につく。いつもセンスのよい服を着こなしているので、すぐにわかる。
相手も私に気がつき、「カオリちゃーん」と手を振ってくる。
私はすぐに駆け寄っていき、「わざわざごめんなさい」と頭をさげた。本日はせっかくお仕事が休みだというのに、私事で呼び出してしまった。待ち合わせの相手は、銀座のクラブで働いている鈴木真里という女性。私も同じ職場で働いている。彼女は先輩だ。
「いいっていいって」と真里さんは平手を振った。
 いつも優しくしてくれる人だった。おまけにとても美人なので、多くのホステス嬢が憧れている。接客も上手なのでお客さんからの人気も高く、いわゆるナンバーワンというやつだった。彼女は二十四歳なのでひとつ年上なだけなのに、とても追いつくことができない。
「あたしよりも、カオリちゃんこそ大丈夫? あんまり塞ぎ込んじゃだめだよ」
「はい……」先日、恋路で悩んでいることを打ち明けたところ、力になりたいといってくれた。「本当にありがとうございます。ごめんなさい」
「だからいいって」彼女はカジュアルパーマがかかった黒い髪をなでながらいった。「むしろ、うれしかったよ、あたし」
「こんなくだらない相談なのに、ですか?」中高生みたいな恋愛相談なのだ。
「くだらなくなんてない」言下だった。いつもカラッと明るい真里さんにしては珍しく、真面目な口調だ。「人によっては、大きな問題なんだよ……ね」
 後半は私ではない誰かに向かって話しているようにも見えた。
「……真里さん?」
「ああごめん、熱入っちゃって。とにかくさ、早めに解決しちゃお」ウインクで長い睫毛がゆれる。もういつもの彼女だった。
 二人で歩き始めてから、「それにしても」と私はいった。「まさか、警察のひとを紹介してくれるだなんて思いませんでした」
 彼女が親しくしているお客さんに警視庁の刑事がいるのだが、そのひとに協力を依頼したらしい。いまから、近くにある飲食店で合流することになっている。
「まあ、ちょっと大袈裟かなって思ったんだけどさ、女ふたりだけで色々と考えるよりも安心感が違うと思って」
「ああ……はい」たしかにそうだ。彼女によると、その刑事さんはすっごく頭がよいひとらしい。「ご迷惑でなければいいですけど……」
「大丈夫。そもそも、じつはまだ協力してくれるかわからないんだ。とりあえず、話だけは聞いてくれることになったの。ごめん」
「いえいえ、そうなのですね。はい、むしろそのほうが気が楽です」
 それから何分か歩いた所で、「そこだ」と真里さんがいった。指をさした先に飲食店がある。勝手にお洒落なお店だと予想していたが、ファミリーレストランだった。ファミレスのなかでは単価の高い店舗だが、それでもナンバーワンのクラブ嬢には似つかわしくない。
 なかに入ると、お昼時とあって混み合っている。真里さんが背伸びをして客席を見渡していると、四人掛けのテーブル席にひとりで座っている男が自分の場所を知らせるように手を上げた。すると真里さんの表情にはぱっと笑顔が咲く。悔しいけれど、待ち合わせのときに私へ向けてくれた笑顔よりも素敵だった。
近づいてきたホール従業員に、待ち合わせだと伝えてから歩き出す。
男の反対側に腰かけてからまず、「会えてうれしい」と真里さんが愛らしい声でいった。
「お久しぶりですね。あれっきりお店には伺えず、すみません」
「もーう、そうだよー、はやく会いに来てよー」
「仕事が立て込んでいましてね。お詫びにここはごちそうしますから」
「焼肉とか寿司ならともかく、こんなファミレスで奢られてもさあ」
「まあまあ、そんなことよりも」そういってから彼は私に頭をさげた。「竹内です」
 私もあわてて頭を下げて、「カオリです」
「聞いています。真里さんが働いているクラブ『咲音』のホステスさんだとか」
「はい。この度は、なんだかすみません」
 もう一度頭を下げる。顔を上げると目が合ってしまい、少々照れた。真里さんと釣り合うほどの美男ぶりは相変わらずだ。いまのクラブで働き始めてすぐのころ、真里さんのヘルプに入ったさい一度だけ接客をしたことがある。それからは現在の五月まで、まだ一度もお店で見かけていないけれど。
「おねがい竹内さん」真里さんが手を合わせる。「力になってあげて。この子、すっごくいい子なの」
「ええ。そのつもりですが、そのまえに仔細をお聞かせ願えませんか? 先日、お電話をいただいたときも、まったく説明がなかったものですから」
真里さんははっとして、「え、あたし、何もいってないの? 話してない?」
「はい。ひどく酔っぱらっていまして、職場のカオリさんというホステスが困っているということで本日会う約束をしましたが、あとはずっと私の好きな食べ物とか、好きな動物とか、なにやら色々と質問されただけでした」
「きゃー覚えてない恥ずかしいっ」
真里さんは顔を両手で覆う。可愛いらしい。わざわざ確認しなくても真里さんが彼に惹かれていることはわかった。この刑事さんも相当な美男とはいえ、クラブ『咲音』のナンバーワンホステスから好意を抱かれることにどれほど大きな価値があるのかわかっているだろうか。
「ごめんねカオリちゃん」真里さんは私にも手を合わせた。
「そんなそんなっ」首を振り返して、「私が説明するのは当然のことです」
「そうですね」と竹内さんが続く。「泥酔者よりも、シラフの本人から聞いたほうが何倍も合理的です」
「ご・め・ん・な・さ・い・ねっ」
真里さんはぷくーっとふくれる。私も竹内さんも笑ってしまった。
「いやいや呆れているわけではありません」と竹内さんがいった。「むしろカオリさんは、真里さんに相談して正解でした。いくら知り合いに警察がいても、わざわざ連絡してくれる人なんていませんよ。彼女は信じていい人物だと私が保障します」
 もちろんです、と私は答える。「誰にでも優しいし、こんなに美人なのに威張ってなくて明け透けで、良い意味で裏表がなくて。でもお店の営業時間になると、凛とした気品があるお姫様に変身するんです」
「ま、まあね」真里さんは恥ずかしそうにしながら、「聞いた竹内さん? ねえ聞いた?」
竹内さんはなにも答えず、「――さて」と仕切りなおした。「ではカオリさん、よろしいですか?」
「はい……でもその、本当に警察の方に相談するほどのことでは……」
「判断しますから」
「……わかりました」
私は真里さんに相談した内容を改めて彼に話した。
 深く悩んでいることは間違いないけれど、本当に大したことではない。
――付き合っている彼氏が最近冷たくなり、会う頻度も極端に減ってしまった。だから、自分に愛情が無くなってしまったのか、または、ほかに好きな人ができたのではないかという不安が生まれた矢先に、別れたい……と告げられた。理由はいわれなかった。もちろんしつこく訊いたけれど、それからは音信不通に。部屋まで会いに行きたいけど、そこまでしてしまうと、ますます嫌われてしまう気がする。怖がられてしまう気がする。でも、どうしても私は諦めがつかなかった。できることならばもう一度、彼と……。せめて私と別れようと思った理由を知りたい。理由がわかれば、やりなおせる可能性があるかもしれないから……
 ここまでありふれた恋愛事情、警察に相談するよう事態でないことはわかっているので正直恥ずかしいという思いすらもある。案の定、口を挟まずに真剣に聞いてくれていた竹内さんの表情も、やや困ったような面持ちに変わっていた。
「……なるほど」と竹内さんは静かにいった。「うーん……カオリさんもおわかりだと思いますが、警察が動くような事案ではないですよね」
 私が頷くよりも早く、真里さんが身を乗り出した。「そんなことないっ。カオリの元カレのことが詳しくわかれば、よりを戻せるかもしれないでしょ。そのためには情報収集が必要だし、こういうことって警察なら得意でしょ? 聞き込みとか、張り込みとか、尾行とかさ、慣れてるでしょ? 私たちだけだと知識も技術も限界があるし、力になってよ」
竹内さんは仕方なさそうに、「この手のことに、警察は協力できませんよ。原則として、事件性がなければ動けないですし、民事不介入というものもありまして」
「私のお願いなのに、そんなこというの? ほっとけないでしょ?」
 こう責められて、困ったな、といわんばかりに彼は吐息をついた。
「いいんです」と私はいった。やはり迷惑はかけられない。「私、大丈夫です。竹内さんがいってることは正しいです。納得もできます。こんなことにいちいち警察が協力してたら、きりがないですよね」
 申し訳なさそうに、すみません、と彼はいった。
「見損なった」真里さんは不機嫌そうにいってから、「あーあ、お腹すいた。ここ、奢ってくれるんでしょ? ぜーんぶのメニュー頼もうかな。いいよねー?」
「勘弁してください」と竹内さんは苦笑した。「べつに、なにも協力しないとはいっていないでしょう」
「そうなのっ」と真里さんは再び身を乗り出した。
「警察官としては無理ですが、個人的にならできることもある」
「うんうん」
「ですが、現在の私はとても立て込んでいまして、やはり事件性がなければ動けません」
「もうどっちなのよっ」とテーブルを叩く。
 竹内さんは財布を取り出して、中から名刺を一枚抜き、差し出してきた。
「いまのカオリさんにもっとも適した相談相手がいます」
 まず真里さんが受け取って、名刺を眺めている。
「探偵……事務所?」
怪訝そうにいいながら私に手渡してきた。
名刺を見てみると『氷上探偵事務所 (代表)氷上霜雪』と書かれている。住所と電話番号も記載されていた。竹内さんに視線を移すと、こう続ける。
「信用できる探偵社です。腕もいい。一人きりの事務所なので多忙なのですが、できるかぎり優先的に協力してくれるように私から連絡をしておきます」
あの、と私はいってから、「もっとも適した相談相手だといいましたが、探偵って……その、こういうことをお願いしても大丈夫なのでしょうか?」
「たしかに」と真里さんが続いた。「探偵っていえばさ、怪しげな洋館で起った殺人事件とか、そういう現場に来る人でしょ?」
 竹内さんは声を上げて笑った。
「サスペンスドラマや小説ではそういうイメージもあるかもしれませんが、現実の探偵というのは違います。むしろ殺人現場に呼ばれた探偵など存在しないかもしれない」
「とはいっても、他人の恋愛事情に関わってくれるものでしょうか?」私が訊くと彼はひとつうなずき、「むしろそれが専門だといってもよいですからね」といった。本当にそうなのだろうか? 判断がつかない。
 私と真里さんは名刺をじっと見つめた。まさか探偵を紹介されるとは思わなかった。竹内さんのいうように、イメージばかりが先行して、中身をまったく知らない未知の業態だ。
「依頼をするのは緊張するかもしれませんが、探偵はどんな相談にも慣れたものです。引け目を感じることはありません。とりあえず連絡を入れてみてはいかがですか? 探偵たちは聞き上手ですから、話してみるだけでも楽になることもあると思いますよ」
「まって」と真里さんがいう。「探偵ってことは、お金がかかるんでしょ?」
「いかにもそうですが、相談だけでお金を取るような探偵ではありませんよ。なので色々と話してみて、納得がいけば依頼をすればよいのではないでしょうか?」
「そのときは依頼料、安くしてもらえるんでしょうね?」
 竹内さんは苦笑して、「それも私から頼んでみます」といった。
私はテーブルに額があたるくらい、深く頭を下げる。「真里さん、竹内さん、ありがとうございます……、子供じみたことなのに……単なる私の我儘なのに」
「そんなことはありませんよ」と彼は静かにいった。「人によっては……大きな問題なんですよね」
なぜか彼も真里さんと同じことをいった。そしてこれも真里さんと同じく、私ではない誰かに向かって話しているようだ。真里さんも伏し目がちにうなずいていた。
 真里さんと竹内さんの共通の知人に、失恋によって思わぬ不幸が訪れた人物でもいるのだろうか。訊いてみてもよかったが、なぜだか訊いてはいけない気がして黙っていた。
「さて、お二人とも、なにか召し上がってはいかがですか?」
 竹内さんにいわれて、まだなにも頼んでいないことに気がついた。従業員がちらちら私たちのほうを伺っている。
「ビールにしよっか」と真里さんが明るい声を出す。「店員さーん、ビール三つね」
「いえいえ真里さん」竹内さんは慌てて平手を振る。「今日は休みなのですが、色々とやることがあるので酒はちょっと。あまり時間もありませんし」
「んー? なんだって? あたしと一緒に飲みたい殿方が何人いると思ってるの? お礼をいわれたいくらいなんだけど」
「ですから……」
 しかし真里さんは彼を無視して、「おつまみ、なんでもいいからさ、どんどん持ってきてよ。――あ、値段が高いやつから順にね」と従業員さんに伝えている。
 私はくすくすと笑い、竹内さんはやれやれといわんばかりに首をふっていた。

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