第2章
それから一週間が経った日の、午後三時。
少し迷ったが、ようやく目的地である六階建ての雑居ビルを見つけた。最寄り駅からは二十分くらい歩いただろうか。大きな駅だったのでしばらくは騒がしかったが、ここまで来ると閑静なものだ。
ビルを見上げる。名刺に記載されていた住所によると、五階に『氷上探偵事務所』があるらしかった。はじめて立ち入る世界なので緊張しているが、一人だけで来ている。真里さんは一緒にきてくれるといってくれたが、もうこれ以上、自分のことで時間を無駄にしてほしくなかった。
五階なのでエレベーターに乗った。雑居ビルによく似合う、窮屈なエレベーターだ。地下一階にあるクラブ『咲音』へ案内するためのエレベーターはこれの十倍は広い。
降りるとすぐに正面に扉があり、名刺にある事務所名が書かれたプレートが掲げられていた。のっぽなビルなので、各階にひとつの部屋しかないようだ。
扉の前で深呼吸をしてから、ドアノブを回す。
奥に長い、長方形の部屋だ。左右の壁には天井まで届くような本棚が続いており、一番奥には黒塗りの大きな机がある。社長室をイメージするような立派なものだった。
そこに、――男が座っている。
「お待ちしていました。氷上です」
挨拶をしようとうと思った矢先に男がいった。よく通る、奇麗な声だ。竹内さんから聞いていたとおり、淡いブルーの丸いサングラスをかけている。この人が、氷上さん……
「遠藤カオリさん、ですね」彼は表情を変えないまま喋る。これも竹内さんか聞いていたとおりだ。
「はい」と声を返す。私は源氏名を使っていない。
竹内刑事が段取りを整えてくれたので、言葉を交わすのは初めてとなる。私はこの日のこの時間に、事務所へ行くようにという伝言を真里さんから預かっただけだ。
「どうぞ」と彼の机の反対側にある椅子に促された。頭を下げてから本棚の間を歩き、腰を掛ける。どういう風に振る舞えばよいのか、まずどんなことから話せばいいのかわからず、内心とても怯えている。
「なにか飲みますか」と訊かれたので、「は、はい、すみません」と返事をする。探偵は立ち上がり、背中を向ける。背筋を伸ばして見てみると、椅子の後方に小型の冷蔵庫があった。
しかし彼は、「――あ」と声を漏らす。私を見て、「こちらこそすみません、飲み物の買い出しを忘れていました。冷蔵庫にはなにもありません」
「え? あ、はい、いえ、お気遣いなく」
「しかし、なにもなしというわけにもいきませんので、買ってきます。ビルの前には自動販売機がありますから」
そういって探偵は財布を取り出し、中を覗く。それからまた、「――あ」と声を漏らした。私を見て、「財布には一万円札しかありません。このお札は自動販売機では使えない」
「あ、あの、本当に大丈夫ですから、お気遣いなく」ぶんぶん両手を振る。
「ですが話をしていると、喉が渇きますので」
「いえいえ私、本当に大丈夫ですから」
そういうと彼は首をかしげて、「そうではなくて、私が」と、自分に指をさす。
「あなたが?」
「ええ、はい」
私は思わず吹き出して笑ってしまった。「どういうことですかっ」
「変でしょうか」彼は不思議そうに、「喉の乾きは自然な現象だと思いますが」
たしかにそうなので、「ごめんなさい笑ってしまって」と謝った。「変ではないです。それでしたら、私が買って来ましょうか? 小銭ありますし」
「その必要はありません」探偵はもう一度、冷蔵庫を開いた。それから、「ミネラルウォーター、グリーンティー、コーヒー、フルーツジュース、スパークリングジュース、どれが好みですか?」
「え? ええっと、グリーン……お茶で」
彼はペットボトルのお茶とティーカップを私の前に置いた。「ホットがよければ、電子レンジがあります」
私はまた吹き出してしまって、「あったのかよっ」と、まるでクラブに来たお客さんを接客しているかのようにツッコんでしまった。
「どうやら」探偵は椅子に座ってからいった。「少しは緊張がほどけたようですね」
今度は私が「――あ」と声を漏らして、「そのために?」いまの不毛なやりとりは……
彼はそれには答えずに、相変わらず表情を変えないまま、「では」といった。「さっそく要件をお聞かせ願いましょうか。ああ、雑談でも挟んだほうがよいのでしょうかね。このビルの近所に焼鳥屋ができたんですけど、そこのレバーが非常に――」
「ざ、雑談は結構ですっ」と割り込んだ。
「そうですか。では話を進めましょう」つらつらと探偵はいった。不思議な人だ。
私は緊張していたのも忘れて、ふふふ、と笑ってから、「はい」とうなずいた。「あ、そうだ、どこまでご存じですか? あの刑事さん……竹内さんからはなんて?」
結局あのあとはファミレスで宴会となってしまったので、私は雑談の延長で元恋人の名前であったり、勤め先であったり、住んでいるアパートであったりを話していた。
「恋路のことでお悩みだとか。それ以外はなにも聞いていません。本人の口から聞きたかったので」
「だったら、ええっと……」
このあとは、まるで知り合ってからしばらく経った友人を相手にしているように会話をすることができたと思う。
内容はどうってことはない。竹内さんに話したとおりだ。別れた彼とやりなおしたい。せめて私と別れようと思った理由を知りたい。理由がわかればあるいは……
私は彼の質問に答えながら、仔細を話した。
「彼の名前ですか? 木下ヒカルといいます。私と同い年で二十三歳。××駅から少し歩いたところにある○○という飲食店に務めるフリーターだと聞いています。私はまだ行ったことはありません。……はい、知り合ったのはSNSのコミュニティで、あ、水族館が好きなので、それのコミュなんですけど、メッセージのやりとりをしていたらすぐに仲良くなって、お互い都内に住んでるってわかったので会おうってなって。ああ彼の家は××駅の近くのアパートです。――え? ごめんなさい、アパートの名前までは意識していませんでしたが、○○というコンビニの正面にあります。……初めて会ったのは去年の七月。当然の流れで一緒に水族館に行くことになりました。そしたら気が合って、また会おうってなって……三回目のデートが終わったあとに、彼から告白されて。九月の末でした。すごく幸せで……。でも年が明けた頃から、彼の……ヒカルの態度が冷たくなって。……はい、別れを告げられたのは二月に入ってすぐでした。……いえ、喧嘩だなんて。はい、口論さえも。だからわからないんです……私に飽きたのかもしれない、好きな人ができたのかもしれない……もうすでに恋人がいるのかもしれない、ですよね……」
他にもいくつか質問に答えたあと、しばらくの沈黙があった。
「――あの」と私はいった。はい、と返事があってから、「ところで、竹内さんはこんなレベルの恋愛相談をしてもいいと仰ってくれたのですが、本当にいいのでしょうか? プロの探偵さんに、こんな……」
「結構です。この手の事案は探偵の専門分野ですから」
先日聞いたとおり、やはりそうらしい。知らない人も多いのではないだろか。これを知っていれば、もっと探偵という仕事と関わるハードルが下がるかもしれない。
「じゃあやっぱり、捜査とか推理をして犯人を探す、とか、そういうことはないんですね」
こういうと、青いサングラスの奥からじっと見られたあとに、「ほとんどの探偵はそうでしょうね」といわれる。
「ありうるんですか? 氷上さんは?」
彼は答えないまま、「とりあえず、カオリさんが以前の恋人である木下ヒカルさんとやり直したいということはわかりました。別れを告げた理由が知りたいということもです」
「あ……はい」
「貴女のいうとおり、理由がわかれば関係修復の可能性はある。ここまでくれば私としては、このさきが本題ということです」
「それらを調べてもらうために、正式に依頼をするか、しないか、ということですね」
「そうです」
――どうすればいいだろう……と思った。考えてみれば、ある程度は自分でできないこともない。簡単なことだ。ヒカルに会いに行って、理由を問えばいいのだから。または、やり直したいと告げればいいのだから。しかし、成功率は低いだろう。本心を話してくれるかもわからない。ならばひっそりと彼を監視したりして調べる方法もあるが、いうまでもなく顔は知られてしまっているために難しい。そもそもばれたらストーカーと呼ばれることだろう。これは犯罪にもなりうる。ゆえに友人たちを巻き込むこともできない。
「ちなみに依頼金のことですが」と探偵がいった。
「――お金なんてどうでもいい」やや語気を強めた。「お金なんていいんです。必要な金額を払います。……それよりも、わからないんです」
「なにがですか」
「探偵さんに任せていいのか、です。たしかに氷上さんは私にはない技術も知識もお持ちなのでしょうけど、話しただけで力量はわかりません。私はいますぐにでも、彼のもとに飛んで行って話がしたい。でも不安があるから、嫌われたくないから、まだ希望を持っているから、誰かに頼りたいんです。でも……」
氷上さんは私の心を読んだかのように、「探偵の能力が低ければ、ただお金を浪費するだけでなく、もどかしい時間も続いていく。苦しいばかり」
「はい。ごめんなさい。刑事さんからのご紹介なのに、失礼ですよね……」
「いえ、冷静な判断です。こちらこそ、依頼者にしっかりと選んでもらわなければなりません。なので、こういうのはどうでしょう?」
私は首をかしげて応えた。探偵は続ける。
「この手の依頼は最初のステップとして《対象相手の行動調査》をします。これだけでも様々なことがわかるものです」
「あ、はい」たしかにそう……。彼が、どんな生活を送っているのかがわかる。恋人がいれば、会っているかもしれない。
「あるいはそれだけでも確信に迫り、解決できる場合すらもある。つまりこの調査内容を見れば、私を信用できることもあるでしょう。今回、正式な依頼をするかどうかは、それからで構いません」
「いいんですか?」
「ええ、一週間だけとしますが」
「たとえ一週間でも、探偵として動くからには多少は費用が――」
「その件ですが」
「――ああいえ、それくらい払います。氷上さんはお忙しいと聞いていましたが、きょうはお時間を作っていただいたうえに、ここまでいってくれているのですから」
何秒かあって、「わかりました」と彼はいった。「でしたら、まずはそれを待っていただくことになりますね」
「はい。あの、勝手なことばかりいいますが、できれば……」
「なるべく急ぎます」
「ごめんなさい」我儘ばかりをいってしまい、あとはもういうことが無くなって、「えっと……それでしたらきょうのところは」
「下まで送りましょうか」
探偵はこういったが申し訳ないので、「大丈夫です。それじゃあ」
私は立ち上がって、頭を下げてから振り返り歩き出す。探偵は追いかけてくるそぶりをみせないから、そもそも一階まで見送るつもりなどなかったのだろう。なんというか、掴みどころがない人だ。
そして入って来た扉のノブに手を伸ばしたとき、――私ははっとした。
扉に、目線の高さに、写真が貼ってある。一人の男が写った写真が、ピンでとめてあるのだ。入るときには反対側となるので、気づかなかったようだ。
――この人は。
「……ヒカル?」彼が道端を歩いているところを撮影したものだ。
背後から探偵の声がした。「木下ヒカルさん。二十三歳」
私は振り返った。氷上さんは両肘をテーブルにつき、平手を組んでいる。
「××という名前のアパートで一人暮らしをしています。ちなみに家賃は○○万円。そこに四年前から住んでいます。仕事先に嘘はなく、××駅の近くにある○○という居酒屋ですね。出勤時間は十七時、二十三時頃まで働いています。この一週間は、まっすぐ仕事場に行き、そして仕事のあとはまっすぐ自宅に帰る生活を繰り返していますね。道中、最寄駅の傍にある○○というスーパーに四回、自宅のアパート正面のコンビニに五回寄っていますが、店内でレジ従業員以外の誰かと会話をしたことはありません。つまりこの一週間では、まだなにもわからない」
私は唖然として、「……どういうことですか?」
「いったでしょう? 最初のステップは、《対象相手の行動調査》です」
「だって……」私は、きょう、いま、来たばかりなのに……。「だったらヒカルはスーパーでなにを買いましたか?」
「缶のお酒、グレープフルーツ味、日によって違いますが二本か三本」
「コンビニでなにを?」
「アメリカンドッグ」
「ほかには?」
「それだけ」
当たっている。彼がよくやる買い方だ。
「一週間ですよ」と探偵がいった。「カオリさんがここに来るまで一週間あった。なにもしないわけはないでしょう」
「でも、どうして彼の情報を知っているんですか? 竹内さんからはないも聞いていないって」
「すみません聞いていました。貴女が竹内さんに話したことは全て」
よくわからなくなり、「え? ああ……でも、だったら、どうしてなにも聞いてないといったのですか?」
「だって」と探偵はいってから、「かっこいいでしょう」
「はい?」
彼は表情を変えないまま、「こういう演出があったほうが、かっこいいでしょう」
私はお腹を抱えて笑うしかなかった。
なにが可笑しいのかわからなそうに探偵はこちらを見ていたが、ややあって、「どうしますか」と訊いてきた。「正式に依頼をして、次のステップに踏み込めば、もっと具体的に彼のことが見えてくるかもしれない」
「次のステップって……」
「彼と話します。《対象相手との接触》です。色々と聞き出します」
断る理由がなかった。どういう言葉で表現したらよいかわからないが、この探偵は信用できる。それは確かだと思った。
「――お願いしますっ」と私は頭を下げる。
「引き受けました」と氷上さんはいった。